昭和44年12月24日 朝の御理解


 御理解第83節『一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、みてる(尽きる)ことはないが。一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ』


 私どもの心の中には、やっぱり、長い苦労してというよりも、もし許されるなら、一年に分限者になりたい、といったような気持ちがありますよね。これは誰でもそうだろうと思う。その証拠に、百万円の宝くじがある。よく売れる。ありゃもう、いっぺんにいわゆる「千金を夢見る」と申しましょうね。そういうその、心が神様の機感にかなわんのですね。
 苦労をせずしておいて、分限者になろうといったような、いっぺんに極楽に行こうといったような、そういう心が神様の心にかなわん。だから、もしそういうことで、約束、我慢ができたら、「我慢我欲」ということを、この言葉を使っておられますが。その我慢我欲によってできましたにいたしましてもね、それは必ずみてやすい。
 「濡れ手に粟のつかみ取りの気になるな」と。ここんところをですね、我慢我欲ということは、どういうようなことだろうかと。まあ、我欲は分かるような気がいたしますよね。我欲は。我慢。
 私は、ある先生のお話を頂いておるうちに、今年は立教百十年でしたよね。何年前からか神様に願いを立てられた。「この百十年のお年柄までに、百名の信者を神様にお供えさしてもらいたい」ね。何が一番喜ばれると言うても、ね、人間のお供えが、言わば、一番神様がお喜びなさる。という考え方でしょうね。何年間で、いわゆる百名の、どうでも百名の信者を神様にお供えして、ね。で、まあ、立教百十年の記念大祭には、まあ、普通百名の参拝なら、二百名の信者を引き連れてお参りしたい、というような願いを立てられた。ね。
 ところが、その願いはかなわなかった、という話を最近聞いたんです。ね。かなわんかったけれども、というてお話なさった。だから今から、(小さいような?)気がいたしますよね。皆さんどう思いますか。
 私は、そういう願いを立てることは、いかにも良いことのようであって、それは、それが「我慢」というのじゃなかろうか、とこう思う。ね。これからこれまでの仕事をしなければと。ね。いつまでには、いくら貯めにゃならん、という目指しを作るという、そういうことをね、焦点の反れた信心で言うんです。信心の焦点ということには、ほんとの信心の焦点を反れた焦点だと思います。
 何年後までには、どれだけのおかげを頂かなきゃならん。いつからいつまでに、これこれだけのことをしなければならん。よくありますよね。
 それではいかにも、仕事の、家業の行のようであって、それは、私は、我慢の場合が多いと思うんですね。神様のこともおろそかにする、信心のこともおろそかにする。なるほどそれでがんばりますからね。いわゆるこれは、まあ何と言うんでしょうかね。その、私は、信心をですね、信心を頂いてのがんばりならまだいいです。なぜってそれがほんとうです。
 けれども、信心が抜け落ちたがんばりを、私は今日は「我慢」だとこう思う。だから、その我慢をいたしますからね、確かにお金も貯まるかもしれません。仕事も思うた通りできるかもしれません。うん。
 ところがね、それではね、ほんとのおかげにならんです。そういう、例えば我慢我力とか、我欲とかをもつ。我欲でしたらなおさらのことだけれど、我欲をもってすることによって得た、例えば報酬といったようなものはね、これは、みてやすい。
 ここに、「人より一年遅れて分限者になる気になれ」とこう仰るのはどういうことかというと。今私が申しましたようなことではない。例えば忙しい、例えばこれからこれまでの仕事をという、そういう中にあっても、ことそこに信心、こと教会の御用、こと神様の、を中心にしたことのということが、そのうちに起きてきたらですね、私は、それをね、自分の仕事は投げ打てれる心だと思うですね。
 だから、やはり、一年遅れて分限者になる気にならにゃ、そら一生懸命やらせて頂いて、ね。一生懸命やらせて頂くということは、ね。人間の体はちびれるものじゃないから、一生懸命にがんばれ、というふうに教えておられます。だからがんばらなきゃ。けれどもその、神様のことを放からかしてまでがんばれとは仰ってないです。
 私どもがね、ここんところは、私中心主義か、神様信心中心主義かということになるんですよ。だから、ここは、私中心主義という生き方でですね、いかに億万長者になっても、したら、昨日からの続きから申しますとですね。ね。
 いかにも健康になりました、いかにも分限者になり、金持ちになりました。でもね、自分を中心主義にしてのそれであったら、子孫繁盛家繁盛ということにはならない。ね。昨日の御理解を、まあ後で参照にして、今日の御理解を頂いてもらいたいと思う。ね
 私、ほんとの意味においての子孫繁盛に繋がる一年遅れて分限者になるということはね、そういう意味だとこう。一年遅れて分限者になる。「どうぞあなたからお先に」という意味じゃないなんです。ないんです。ね。
 ここにひとつのものが与えられようとしておる。だから、さあ、誰が取るか、「さあ、あなたがお先に」と。自分は後にする。そういう意味じゃないです。一年遅れて分限者になるというのは。ね。これはどこまでも神様を中心に申し上げたところの信心。
 「一にも神様、二にも神様、三にも神様」という生き方なんです。決して仕事おろそかにせろというのじゃない。仕事は一生懸命しなければならない。ね。御用としてさしてもらわなきゃならん。御用なんだ。ね。けれどもそれがね、神様中心という、信心中心という一生懸命の働きでなからなければならないということであります。一年遅れて分限者になるというのは、そういう意味だと。
 「神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気になるな」と。ね。ぬれ手で粟をつかみ取り、ね。つかんだだけではない、ぬれた手には、いっぱい粟がついてくるというわけなんです。けれども、一年遅れて分限者になる気になるということになりますとね、どういうことになると思うですか。つかむどころかね、向こうの方から、まるきりこちらが磁石のようなもんです、状態です。こいうふうにピシャピシャこれに引っ付いてくるわけ。まあ、ぬれ手で粟のつかみ取りになるよりも素晴らしい。
 御理解何節でしたかね、御理解の最後のところに、「この方がおかげの受けはじめ、このとおりのおかげが受けられる」というようなお言葉がありますですね。私は、この通りのおかげというのは、私、そういうおかげだとこう思う。ぬれ手で粟のつかみ取りげなこっちゃないです。そういう動きは必要でない。願わんでも頼まんでも、これに集まって来る。
 これに、例えば、結局私自身が、たぶん磁石体になることなんだ。人も付いてくる。物も付いてくる。金も嫌といらんと思うても付いてくる。もちろん健康も付いてくる。人間の幸せの全てのものが、これに寄ってくる、集まってくる。素晴らしい事でしょう。一年遅れて分限者になるという気になることはそういうことなんです。
 それを、例えば、また、(もう一個?)の言葉でいうと、今申しますように、私中心の御用か、神様中心の御用かということになるのです。生き方、神様中心の生き方。いわゆる神様本位の生き方。ね。私本位ならそれは、御用ではありますけれども、商売なら商売さして頂いたものが、今日は一生懸命、大売り出しだから働かしてもらおう、とこういうのである。
 ところが、ちょうど大祭になったと。今度の十二月二十日の大祭が、ちょうど田主丸の「むつや」その日から売り出しが始まったんです。もちろん町内の皆は、あれでしょうね。そら自分方の大売り出しに、大祭の日から始めるはずがないですから、確かそうでしょう。
 それをやはり中心である、しんじさん、それからしんじさんは、ここにも前の日から御用さして頂いて、(  ?  )を頂いておりますから。まあ、さえこさんやら(?)さんやら兄弟達が、やっぱりおかげ頂きたいけれども、「お前達は、大事じゃけんおらにゃできん」と。もうとにかく、心は合楽に行っとるばってん、家の方には兄ちゃまがその、(お参り?)できんと言うたもんだからおったというわけなんです。
 例えばこのような場合です、ね。人より一年も、例えば一週間の売り出しならばです、自分方は六日間でよいという気になることなんです。潔うその売り出しの初日をですね、「本日休業」で参ってこれれる信心なんです。
 明くる日、あのりょうこさんですね、お姉さんのほうが出てきてから「もう先生、もう妹達がもう、とにかくご大祭だけはお参りしたいばってん、お兄ちゃまがそう言うもんじゃから」お店( ? )二人、なら出てきておるもんですからね。なるほど店に、家のほうにはおらんわけにはいかんと言う。だから、普通から言うたらそれが当たり前です。いや、しんやさんも出てこんでも、しんじさんのほうが出てこんでも、「今日、実はこんなわけですから」と言うのですから、もう普通から言うたらです、もうそれだけでも言い訳は十分立つわけです。普通から言うたらです。ね。
 それは、決して、ぬれ手で粟のつかみ取りにまるきりなっとるわけじゃないけれどもです、ないけれども、「一年遅れて分限者になる」というふうになってもいないわけです。ね。
 ですからね、神様が中心でなからなければできるこっちゃないです。自分中心ではできることじゃないです。けれどもね、合楽の信心はここを頂かなかったら値打ちはないです。値打ちはないというのは、いわゆる、後からね、限りなく、願わんでも頼まんでも、人が物が付いてくる、とこういうのですから。いいですか。そういう人が物が金が付いてくるという、そういうおかげがです、子孫繁盛になるのですよ皆さん。昨日の御理解もういっぺん思い出さなきゃいけません。子孫繁盛に繋がるというのは、そういうおかげのものでなからなければ繋がらんのです。たら、目先の事をお繰り合わせを頂いて、お願いをしておかげを頂いたというのは、その時だけのものです。
 しかし私は、これはほんとうに「むつや」というお店に神様の期待があればこそ、そういう働きがあったんだと思うんですけれども。まあここにりょうこさんが来てからお届けをするのがですだよね。
 もうそれこそ、売り出しじゃない時よりも寂しかったっち言うんですから。大祭、売り出しの日です。ね。そこで、しんじさんが、おそらく分かったであろうと思うことなんです。はあ、これは一年遅れて分限者になれ、ほんとに例えばそういう、たまたま大祭と売り出しが一緒になるといったような時にです、ほんとに神様本位でいっておったらです、ね。
 例えば、ああいう時にどうでしょう。「今日はご大祭につき、本日休業」なんて看板の掛けられるような信心になったら素晴らしいですばい。そうせろじゃないです。そうしなければおられない信心が素晴らしいです。一週間の売り出しを「俺んとこは六日間でいい」という気になることです。もうそれこそ、向こうの方から付いてくるおかげが絶対です。ね。
 一年遅れて分限者になれ、なるということはそういうことです。私は、ここんところですね、「お先にどうぞ」といったような感じだったんですね、ここをいつも頂く時に。ね。信心さして頂く者が、一歩遅れて、人よりか一年「さあ、あなたがお先にどうぞ」というような気持ちかと思ったら、そうじゃないです。ね。ほんとの意味においての家繁盛子孫繁盛に繋がる、私は、繁盛でなからなければならないと。為には、私を中心にした小さい信心から、ひとつ本気であなた任せっていうか、あなた中心の信心。いわゆる神様本位の信心。
 そこに神様が、ね、「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられます」というような素晴らしいことになってくるんです。ね。「氏子が神様本位なら、神様が氏子本位になってくださる」というのです。神様が私ども本位になって下さったらどのようなことになってくるだろう。ぬれ手で粟のつかみ取りのぐらいなことじゃないです。
 人間のひとつかみちゅうたらこれだけ。それ例えばぬれ手であるなら、また、手の触れるに粟がつくくらいなことですよね。けれどもね、神様の一握りというたら、これは、久留米の初代の石橋先生が言うておられた。『人間の一握りというのはこれだけだけれど。神様の一握りっちゃどれだけあるやら分からん』と仰った。ね。
 私は、このへんのところをですね、倒れ転びしながらでもよいから体得してかにゃいかん。今のしんじさんの場合なんかは、そこんとこ倒れ転びしながら体験していきよる、とこう思いますよね。後は体得だと思います。
 これは松栄会の、まあ精神とでも言うですかね。それこそパラシュートを抱いて、その飛行機から飛び降りるくらいな勇気が必要だと。ね。そういう時にですね、大祭。しかもちょうどその、大売り出しと一緒になったと。そういう時にですね、「本日休業」と出せれるような信心を頂きたい。
 それこそ、パラシュートを抱いてですね、飛び降りるようなもんです。絶対広がるです、これなら。ね。いっぺん飛び損なってもです、ね。例えば開き損なってもです、そこんところを繰り返し繰り返し信心さして、して、いわゆる神様本位の生き方にならせて頂いて行くならばです、これはもう絶対の、一年遅れての分限者ということはです、いわゆる徳を受けての、それだというおかげを受けられることを、私は確信いたします。これはまあ、私の体験からでもそれははっきり言われます。
 だから、普通から見たら、ちった気違いのごと思うでしょうね、売り出し中とに「本日休業」と掛けてあるなんて言ったら。ね。
 しかしね、最近の金光様のご信心でおかげを受けられなくなったというのは、そういう信心が非常に少なくなったことからですよ。生きたのがなくなってきたのが。
 昨夜、ここでお月次祭が、の半ばに愛子さんが帰ってまいりました。学院。冬休みになったわけですね。二十三日、本部からの通知を受けておりましたから。ここでお待ちしておりましたら、ちょうど、私の説教中でしたでしょうか。
 帰ってきた帰ってきたな、とこう思うて。まあいろいろたいへんおかげを頂いておるもようでございますが、あちらへ一緒に、お食事をまだしておりませんでしたから、お祭りをすんで一緒に食事をさして頂きながら、もう一番始めに言うことがです「もう親先生、もう豊美ちゃんがとにかく、おかげを受けておられます」ということであった。ね。時々お尋ねして、その家庭の雰囲気を見せて頂くと、ほんとにおかげを受けておられる。
 ちょうど二十二日というから昨日ですよね。昨日、一昨日です。二十二日が、御本部のお月次祭です、ちょうど学院生皆、行列に行列が、並びに並んで、皆本部へお参りをいたしますよね。ちょうど、あちらのところから、五代金光様御夫妻と、それから豊美とお母さんと四人で、お月次祭にお参りしておられる途中でお会いした。
 自分は(来た足?)だから、学院の列から外れて、物申し上げようと思ったけれども、「先生、あのようなふうにしておられても、豊美ちゃんって呼びかけられないような気がいたしました。( ? )様も美しいけれども、豊美ちゃんも美しかった」っち言う。(笑い)それは私も知らんよっち言うた。私もほんとにおかげを受けていきよるなぁと思わせて頂いた。ね。
 金光様御夫妻と豊美親子と、あの、一緒にお月次祭にお参りをしておるという、そのことにです、ちょうど出会わして頂いて、その時に感じたことが、今申しましたように。豊美ちゃんちゅうてから声がかけられなかったっち。ね。
 私は思います、二十年間、例えば私どもの信心を言や、もっとまだいいですけれども、このように人が助かられるようになられてから、二十年間。ね。とても人間の、ね、工夫とか計画やら、または、計略やらでですね、できることではない。二十年間という信心のです、言うならばです、人より一年遅れて分限者にならせて頂くという気にならしてもらう。ね。
 言わば、教会になることが十何年もかかった。教師になることが十八年間もかかった。ね。それこそ、高校出ただけで、一年間行きゃ教員の資格は誰でももらえれるような、その教師の資格すらが、私の場合は十八年間かかっている。それはなぜだったか、人間心使うてであったらです、ね。ここで言うならば、まあ、ぬれ手で粟のつかみ取り、いっぺんになろうと思えば、ということになるかもしれません。これはちょっと意味が少し違いましょうけれどもです、言うなら、一年遅れて分限者になる気になれということがです、ね。神様本位の生き方だというふうに、今日は頂いておりますから、私が、自分を中心ではなくて、神様本位の生き方をさして頂いたおかげなんです。ね。
 だから、二十年間の間に、そのような働きができれる、でけることのもとが、ちゃんとできておったということなんです。それこそ、ある意味で「あれよあれよ」と周囲の者は言うばかりでしょう。うん。
 これは、金銭だけのことではないということを感じます。ね。
 どうぞひとつ皆さんも、おかげを頂いてですね、いわゆる今日は特に、「我慢我欲はできんぞ」と仰る、「我慢」ということについて、ひとつ焦点を置いてお話したように思います。「我慢」ということは、自分で「これくらいのことはせなならん」「これだけのこと」
 それは、人間の体はちびれるものじゃないから、一生懸命(がまらす?)。一生懸命働く。真っ黒になって働く。それは結構。けれども、こと神様のことと言ったら、どのようなことでも、それを投げ打てれれる信心。それを神様本位の信心。それが人より一年遅れての分限者になる生き方だということを申しました。
 それを「むつや」の今度の報徳祭と、ちょうど大祭が一緒になって、なるほど、しんじさんとしげるさん中心の人達が、二人の方がこちらへ前の日から御用頂きよりますから、でけんのも当たり前だけれど、まあ参ろうしてたまらん二人の妹達は、家で留守番さしとった。それでまあ店は開いておったけれども、もうとにかく普通の日よりも、とにかく閑散だったということ。
 そこでしんじさんが分かったであろうと思うことはです、ね。どうせまた私が、しんじさんに対する願いがです、そういう時にです、一週間の例えば(よし売り台?)であるならば、家は六日間でよいという気になって、たまたま同じ二十日の日からということになったなら、二十日の大祭の方を。とにかく「本日休業」の、私は、札が出せれるだけの信心。
 そこにはです、とても一週間、十日で頂けることじゃないほどしのおかげがです、形の上でいっぺんにパァッと頂けれるというのじゃないです。そういうおかげが頂けれるもとがです、ね。必ず付くということを、ね、体験して行くということが、信心。それが人より一年遅れて分限者になります。を気になることだということを申しました。ね。
 もちろん、「我欲」ということは、なおさらのことでございましょう。ね。「我欲」ということは、身欲のことやらは、もちろんそれ以上に悪いことでしょう。けれども今日は、とくにこの「我慢」ということ。自分で、ね、自分、自分で、その、我力を出すということ。
 「神様もこう忙しいことはご承知だから」なるほど、それでよい時代もありますよ。ね。あります。ね。けれどもね、けれども、お互い信心をさして頂いて、なら一年遅れて分限者になる気に、ほんとに分限者になりたいならばです、ほんとの意味においての分限者になりたいならばです、そうなったことがです、あの世にも繋がる。または、子孫にも家繁盛にも繋がるほどしのおかげを頂きたいならばです、私が今日申します、ね。一年遅れて分限者になる気になるということ。神様本位にならせて頂くということ。そこに神様が氏子本位になってくださるほどしのおかげを受けた時に、始めてそれはほんとうのおかげ。いわゆ子孫繁盛に繋がるおかげ。ね。そういうおかげを頂いて欲しいと思います。どうぞ。


明渡 孝